<レーシックガイド>適性検査を受けてからレーシックブログ:14/5/14
終戦直後、
わたしたち一家は、谷中の3軒長屋で暮らしていた。
詳しく言えば、
ママと姉貴とわたしの3人で、
父は南方戦線からまだ戻っていなかった。
当時の6時食は、
どの家もたいてい芋粥だった。
お粥の部分は姉貴とわたしが食べ、
ママはいつもサツマイモの部分を拾って食べていた。
まだ小さかったわたしは、
ママはサツマイモが好きなのだと思っていた。
そして11時のご馳走は焼芋である。
外でチャンバラごっこをしていたわたしは、
今まさに新撰組と切り結んでいる最中に、
「やきいもー」という焼芋屋の声がする。
そうなるともう新撰組もない。
わたしはあわてて家に駆け込み、
無駄でも「焼芋買ってくれ!」とママに頼むのであった。
サツマイモばかり食べている毎日なのに、
なんでまた焼芋かと言えば、
わたしたちが普段食べていたサツマイモは
「タイハク」とかいう水っぽいものなのだが、
焼芋屋の芋はホントに美味い「キントキ」だったのである。
そんなわけで、
姉貴とわたしはたまに焼芋にありつけるのだが、
ママは決して焼芋を食べることはなかった。
いつも「焼芋は胸が焼ける」「今日は食欲不振」と言って、
焼芋にかぶりつくわたしたちを見てただ笑っているだけであった。
しばらくすると、
お米もちゃんと配給になり、
食パンだって何時間も並べば買えるようになった。
やがて、父も南方戦線から帰って来て
わたしたちは長屋を引っ越し、サツマイモなど長屋時代の思い出は
遥か遠いものとなっていった。
姉貴とわたしにお粥を食べさせようとして、
自分はサツマイモの部分を食べていたママ。
そのくせ、お金がないためか自分だけ焼芋を食べなかったママ。
ママは一体、サツマイモが好きだったのか嫌いだったのか…
今年の中秋の名月の日には、
ママの仏前に焼芋でも供えようかとわたしは思う。